【岩田温の備忘録】歌心について 2025年7月9日2025年7月8日ブログ 昨日は高校時代の友人が大阪に遊びに来てくれた。彼はアメリカ在住。ニューヨークという民主党の牙城に住んでいる。予約した時間にお店に入ろうとしたら、何故か満席。予約しているのに不思議だと思いながら、暑い中、外で待つ。外だと倒れると思い、近所のコンビニに駆け込んだ。雑誌コーナーを観ながら尋ねた。「アメリカにも週刊誌って、こんな感じであるの?」「アメリカにも雑誌は結構あるけど、『この夏こそ痩せる』とか『英国王室は…』との話題が多いよ」どこでも多くの人々が興味を抱くことは似ているようだ。少し待った後にお店に入ると少しだけ待って、カウンター席に座ることが出来た。よくみると満席である。何故、平日に混んでいるのか不思議だったが、部屋が暗くなり、流れている音楽が変わって、パチパチと光り輝く線香花火のような蝋燭がついたケーキが登場して理解出来た。七夕に入籍する人たちが多かったのだ。令和7年7月7日7時7分7秒。随分と7が並ぶ。西暦圏では有り得ない入籍日だった。そして、もちろんだが、全く関係ないおじさん2人にはケーキがない!断固、抗議‼️、は、しなかった。友人は文章が長くなる癖があるので、短歌を詠むことにしようと日本から本を取り寄せたらしい。どの本にも我々の高校時代の国語の教師のことが紹介されていたという。そういえば、あの先生は昨年亡くなったらしいと話す。随分と可愛がってもらったが、卒業後一度だけお目にかかっただけだった。色々とお話をうかがっておけばよかった。ところで、残念ながら、歌心のない私は和歌や短歌の類が苦手だ。覚えているのは… けふよりは かえりみなくて おおきみの しこのみたてと いでたつわれは 『萬葉集』に収められている防人のうた。 マッチ擦る 束の間海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや 寺山修司が朝鮮戦争を始まった際、日本に残っていた在日の心情を詠んだ歌だ。どちらも武張った歌だ。友人によれば、短歌入門で紹介されている歌は余り感情移入できない作品も多いという。何故なのか。恐らく、我々が切実に共感できるためには一種の精神的な同調を前提とするからではないか。目前に迫った戦争に出征しなければならない防人の「かえりみなくて」との言葉には、保田與重郎が指摘したように、「かえりみる」我と「かえりみてはならない」我との葛藤が描かれているから、切ないのであって、決然とした旅立ちの歌ではないからこそ、そこはかのない哀しみが伝わるのだろう。寺山修司の歌でも、祖国に帰り戦わなければならない自分と平和な日本で暮らしたい自分との葛藤が描かれている。大義と死とが同居し、そこに戸惑いを覚える精神の揺らぎに我々は何がしかの感動を覚えるのだろう。今日は早く帰宅したけれども、恋人に会えなかったという想いを短歌に綴ることが間違っているとは思わないが、何か切実に心に響くものがないのも事実である。そういう意味では、芸術は死と隣り合わせになった方が作品の水準が高まるのだろうか。などと考えると一気にナチズムに近づく気もしてくる。ところで、落語の「道灌」では、江戸城を築城した和歌の名手太田道灌が歌道を志す逸話が紹介されている。俄雨に遭った道灌が蓑を借りようと民家に立ち寄る。民家では少女が応対し、蓑を貸す代わりに何故か道灌に山吹の枝を差し出す。意味がわからず怒る道灌に、側近が囁く。 「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」 「山吹の実の」を「蓑」に掛けた少女の教養溢れる応えだった。道灌は己れの無知を恥じ、歌を学び始める。残念ながら、私には歌心がないのだが、よい趣味だと感じた。日本の夏ということで岩牡蠣を食す。 食した牡蠣 太田道灌